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2005年 07月 30日
恋愛物語展
恋愛物語展──どうして一人ではいられないの?──
23/04/05 - 15/08/05 日本科学未来館 (火曜日休館)
もちろん,最近僕が携わった意味での「物語性」とは何ら関係ない.会場入り口には,写真家が様々なカップルや風景を撮った写真をスライド展示.眺めていた短い間では老夫婦,同性愛のカップル,幼稚園児のキスなどが映されていた.その後は,人間以外の種における性(性転換,3種以上の性など)や,性の発生などを展示し,最後には「バー」とよばれる,スタッフが恋愛の物語を語るスタンドと,ゲームや絵本などが楽しめるソファとが置かれたスペースがある.
科学未来館では,説明スタッフが向こうから寄ってきてくれる.美術館のように「鑑賞する」わけではないのだから,そのサーヴィスには従来の科学展示館にない新しさと,科学を宣伝するという使命感とを感じ取るべきなのだが,つい面食らったり驚いたりしてしまう.きっとスタッフ自身も,どういうタイミングで声をかけるか計りながら近づいてきているから,つい音もなく忍び寄ることになるのだろう.それに,おそらくスタッフにとって,子供相手に説明する調子で大人に説明する訳にもいかず,ごく普通の対人コミュニケーションに要求されるような相手の忖度を,いつまでも初対面の人間を相手に繰り返すという試練である.「つい頭が下がってしま」ったりはしないが,よく続いているなー,と思う.
子供がパケット通信の仕組みや五感を使うコミュニケーションテクノロジーを楽しんでいるのを見ていると,実際にそうしたテクノロジーを開発する側になるまでの,進路に影響しやすい中等教育で理科をどう楽しく教えられるのか,とふと思った.思っただけで,特にそれ以上考えはしないけど.

# by d_ama | 2005-07-30 23:30 | events / art
2005年 07月 29日
post戦後?アンデパンダン展
post戦後?アンデパンダン展 ──あり得べき戦後?──
23/07/05 - 12/08/05 appel(経堂) 金曜定休
金曜イヴェント:
【質問】アドルノにきく,六〇年目の,今日,詩をよむことは依然として野蛮なのだろうか?
花森安治と憲法9条をめぐるポエトリカル・リーディング+レクチャーズ
小田マサノリ,さかいれいしう,山川冬樹,DRAGON CASTLE,イルコモンズ

小田マサノリ氏が自分の仕事をいくつか並べる中で「美術館向けに工作すること」とちらと言ったのが,単に「図画工作」の「工作」ではないだろうな,とたまたま最近読んでいた谷川雁(読んでいたのは別の本だが,彼の主著の一つは『工作者宣言』)を思い出したが,イヴェントが終わってから掲示されていた同氏の『図書新聞』寄稿に,もろに谷川の名を出していたのを発見.日本国憲法9条に殊更に関心を抱いてイヴェントを開くということ自体,日本国民と政府との契約書として一般的に関心を持つという意味合い以上に,もはや一定の引用の系譜に連なることの言明なのかも知れない.そういう時流になっているのかも知れない.
イヴェント第一部は花森安治の,詩なのか何なのか判らない『暮しの手帖』誌上の文章を,さかいれいしう氏が朗読したもの.その後,1946年にビキニ環礁で行った初の地下原爆実験(第五福竜丸は1954年)の記録フィルム(DVDになっている)を見て,次に同じく花森の文章をさかい氏の朗読,小田氏のVJと小田・山川氏・DRAGON CASTLEの伴奏でたどった.憲法9条の文章を自動翻訳で英語,ドイツ語,フランス語,イタリア語などにして日本語に戻したものをみて笑って,さらに諸言語から戻してきたそれら擬・日本語の文章をサンプリングして全員でパフォーマンス.山川氏による脈拍コントロールを聞くのは実は初めて.芸大取手に通っていた頃と現在デジタルコンテンツにおける物語性の意義を考えるプロジェクトとでお世話になっているさかい氏のパフォーマンスを聞くのも,実は初めて.経堂の街を歩くのも初めてだった.夏期講習で翌日も朝早いために,打ち上げに参加できなかったのはとても心残りだが,単なる観客としてはそれも一つのたしなみか,と考え直してみたりもする.
大正時代にデモクラシーと呼ばれた発想を「暮らし」というタームの称揚で継承・発展・浸透させる花森の企図と,実際の『暮しの手帖』誌面との連関はいずれ確認してみたい.あるいは『暮しの手帖』から直ちに想起される読者層としての主婦が,戦後日本社会に占めた位置.また1920年代ないし大正時代に花森がどういう影響を受けてきたのか辿るのも,『暮しの手帖』が健在である以上ひどく容易な作業になるかも知れないが,いずれやってみよう.そうした広いマッピングから見たとき,なおも分離派建築会は重要な意義を持っているのだろうか.同会をある思想的系譜の産物と見なすか,新たに何らかの新たな思想を発明・付加・変形したのかどうかを検討するのが博士課程の課題.
また小田氏の主張は「憲法9条は前衛詩である点で世界唯一であり,その保持は一種の実験である.改正するならより過激にすべし」というもの.一方で「もうこの文章は読めなくなるかも知れない」という現状認識ももっていらっしゃる.誰も本気になって相手にしていないかのような憲法9条だが,花森の引用を通じて示された,由来に関わらずそのものの価値を認める態度は,当面僕が憲法全体について何も知らないにしても,記憶しておこう.

▼実写版「アドルノにきく」未公開映像
▼核バクダン被爆六〇年、ということで
▼イルコモンズ憲法

# by d_ama | 2005-07-29 23:30 | events / art
2005年 07月 28日
物語性を重視するデジタルメディアの制作配信基盤
文学理論でいう物語性とは全く別個に,ゲームやウェブなどのデジタルコンテンツを念頭に,「物語性」の多様な実例をもとに共通する特徴を抽出するという研究を手伝っている(上題の研究は,さらに物語構築のためのエディタと,インタラクティヴィティを保証する効果的なブラウザの開発まで予定しているが,僕が実際の開発作業に携わる予定はない.その能力もない……).

僕からの話題提起:
①建築家の枠を超えた活動を展開するレム・コールハースについて,その活動をグラフィックデザインから支えているマイケル・ロックが述べる.「レムが建築界にもたらしたのは,ナラティブ,あるいは映画的な語り方ではないでしょうか.レムはいわばレトリックの帝王で,映画言語的な方法をとること[に]よって建築界の壁を破ることができた.[…]『S, M, L, XL』のすばらしいところは,非常に取り扱いにくい建築的な現象を,ビジュアル的な物語としてアクセスしやすいものにしたことです」(瀧口範子『行動主義──レム・コールハース ドキュメント』,TOTO出版2004,321-2).彼の意識的な方法の大掛かりなマニフェストといってもよい『錯乱のニューヨーク』における「マンハッタニズム」から,次の書物『S, M, L, XL』や『Harvard Guide to Shopping』を通じて確認できる方法論を「物語性」というキーワードから構成した.

②門内輝行 [1997] 町並みの景観に関する記号学的研究,東京大学建築学科博士論文.日本の伝統的町並みを悉皆調査した結果,街路に面したファサードの連続体(記号現象=認知において「タウンテクスチュア」を生成する)について次のことが言える.タウンテクスチュアを構成する記号群の間に,制約の強さの異なる多様な配列規則が存在すること.強い規則性を持つ記号に支えられ,種々の配列自由度を持つ記号が分布するという秩序が存在すること.特に,ある町並みにおいて全ての住居に共有された建築的要素=コネクタといくつかの住居にしか共有されないシフタが存在すること.そこで,「物語性」一般にかんして,一定の秩序が全体を通じて保たれながら,個々において揺らぎが生じており,一様で変化のない連続になることが避けられているという特徴を抽出した.

他の皆さんの話題提起は,オブジェクト指向でヴィジュアルなプログラム言語Alice,精神療法の一傾向Narrative Based Medicine,川俣正らを中心に病院内で進行中のプロジェクトEPOCH,NHKが開発中のTV番組構成をパッケージングしたTVML,Non-Player Characterの挙動が重大な意味を持つ「新世紀エヴァンゲリオン2」,複数本のシナリオを同時進行させながらゲームを進める「街」,参加者個々が隠し持っている役割を推理する,BBSによるゲーム「汝は人狼なりや?」など.特に「汝は人狼なりや?」に着目して,開発作業に移行するよう.

# by d_ama | 2005-07-28 00:32 | books / studies
2005年 07月 24日
中央線の再インストール
以前武蔵小金井に住んでいて,最近江戸川橋/神楽坂に引っ越してからも東西線で高円寺に定期的に通っているので,中央線の事故には毎度のように困らされています.
月に3,4度クラッシュするのに,鉄道サービスという商品ゆえに,また特に周辺の私鉄と距離があるゆえに,選択の余地がないという点で,Windowsを想起させるので,中央線の「再インストール」がいかに可能か考えてみました.
1.鉄道施設や車両をハードウェアとたとえると,それを動かす人間やシステムがソフトウェアです.というわけで,運営企業をスイッチしてみようと思いました.鉄道会社はOSよりは選択の幅が広いですが,近所にある京王や西武では地域的に見て寡占になってしまうので,
a.JR東海
b.JR西日本
などを思いつきました.aの場合,他の線路(山手線とか総武線とか横浜線とか)との協調が著しく損なわれそうですが,同じ橙色をシンボルとするのが長所です.bの場合,地域が懸け離れますが,多少遅れても挽回するためにかなり速く走ってくれそうですし,中央線は線路が真っ直ぐなので比較的安全です.中央線と東西線(または特快と快速)が30秒差で乗り換えなんて芸当が実現するかも.

2.線路をOSとして,その上を走る電車をアプリケーションとたとえることもできます(通常,コンピュータの話を説明するために電車のたとえをするみたいですが).問題がOSにある場合も,アプリケーションにある場合もありますが,今は現に三鷹と立川の間でOSの再インストール作業中ですので,アプリケーションの更新を考えてみましょう.車両の機能には詳しくありませんが,洗練されたインタフェースが欲しいです(どんな種類の電車に乗ってもだいたい使い勝手?が判るとか,ユーザごとにカスタマイズ可能とか,音がサクサクしてるとか).ワードみたいにあまりに多機能な電車(車内の乗客を検索するとか,備わっている機能を表示したら窓がすごく狭くなっちゃうとか,間違った日本語をいちいち車内放送で指摘してくるとか,突然イルカが出現するとか)は要りません.

たちの悪い冗談だったら,失礼…….

# by d_ama | 2005-07-24 00:38 | miscellaneous
2005年 07月 23日
瀧口修造における「日本」とシュルレアリスム
橋本悟,瀧口修造における「日本」とシュルレアリスム,「現代芸術アーカイヴ」企画室/issues 編集部「芸術学」研究サークル第V期7月例会,多摩美術大学芸術学科,2005.7.21.
瀧口の「日本」(「東洋」「大東亜」「伝統」)を「西洋」に対置させる議論は,「無意識」を排し(!)「意識的な」「自律的な」「個人性」と「自由」を主張したシュルレアリスム受容と同様に,「無からの出発」による「勝手」で「自由」な表現・受容を標傍しつつ,西洋的な視線をなおも固持することで,裏付けられていた.言い換えれば,西洋的な思考・視覚の枠組みを「自由」の名の下に不可視にした上で,日本にもう一つの西洋たるべき伝統を発見し(たことにし),西洋の一国として日本を位置付けた.そのために,無意識という「他者」を抑圧し,また日本であれ中国や挑戦であれ,西洋的な枠組みに準拠しない伝統の受容を抑圧した.

今回の発表では1回言及されたのみだったが,ブルトンの「模倣不可能で消去不可能に作られた標識」と瀧口の「西洋流」の「別な記号」という表現との差異にも,西洋受容の一例が見られる.「無意識」を排しながらも「シュルレアリスムの紹介者」と位置付けられてきた瀧口修造.分離派においては,森田慶一が自己の中の他者として「無意識」をとりあげる議論が見られるが,この微妙な議論の分析は困難.自己の中とも簡単にはいえない絶対的な他者として無意識を理解することもできたはずなので,表現主義が標傍した(意識的と考えられる)「自己」の中にダダ・シュルレアリスムが標傍した「無意識」を入れ子的に位置付けるのは,特徴的.問題は森田においてそうした理解がその後の古典建築論研究に繋がるかどうか.

韓国から来た友達に「瀧口についてこのようなことが今までいわれてこなかったことが不思議」といわれた.多分,従来は時代的な制約で論者本人の責任ではないとされてきた様々な意識が,今後掘り返され,相対化されていくだろう.その流れの中に,僕の分離派研究も入るかも知れない.

# by d_ama | 2005-07-23 00:08 | books / studies