人気ブログランキング | 話題のタグを見る
2005年 09月 04日
自分と対象との合間
これは,詩のようなものです.つまり,理解を求めるための一定の形式に則っていないし,そもそも理解を求めてもいません(理解されたくないのでもないです).言語を組み合わせて実験している,というより,戯れている,という程度のものです.ときどき,この手の文章を書きたくなります.ブログに載せる(人が見てもよい場所に放っておく)のは,多分なにかの可能性を拡げるためでしょう.

具体的な問題を抽象化すると,とたんに判りやすくなることが多い.「言葉にすればその時点で解法が見つかる」ないし「言葉にするだけで解決になる」といったたぐいの事柄がそれに該る.当然ながら,抽象化の過程で余計な情報が削ぎ落とされ,本質を把握できるようになるからである.自分の行った抽象化のレヴェルを測りたければ,他人と対話してみるのも一つのアプローチである.他人ということのうちには,書物(の著者)も含まれる.
しかし,なかには抽象化を拒む問題もどうやらあるようだ.どこまでいっても具体的な名称に留まったり,どこまでいっても名称にすらならなかったりする,ある種の感情,感覚,形状ないし形態,環境ないし状況があり,この手の問題において対話によるアプローチは不可能である.どこにも本質がないというよりも,ストーリー化してみても何が本質か,何が趣旨なのか,目的なのか,全く掴めない.ただただ,苦しい状況だけが,意識の内部か無意識の内部か,どこかで認識されており,そのためにあらゆる判断が宙吊りにされる.失語症と呼んでも,判断停止と呼んでもよいだろう.

叔母に,わざわざ言いたいことを難しくして論文を書いていないかと言われた.難解とされる語彙に頼る心理は,どこかで自己を防御するための武装に近いものがある.簡単な語彙にすれば論文が低く評価されるという意味ではない.語彙の一つ一つに歴史があり,使い分けしなければならないという研究者独特の文脈もあるが,そのことを言いたいのでもない.誤解をおそれずに言えば,何が「言いたいこと」なのか判らずに進んでいる.その結果,自分とは別のところで,ある結論が生まれる.その結論を導いたのは確かに著者である自分なのだが,その判断をさせたのは自分というよりも,不可避的な状況である.そう結論せざるを得ないような文脈がこれまで重ねられてきたということ.自分の組み立てた文脈ではあるが,それは対象に応じて忠実に組み立てたまでのことである(この言い方に拠れば,部品を組み立てるのは,メーカーが書いた説明書であって,組み立てた人間ではない.説明書がなくても組み立てられるとすれば,それは対象そのものに情報が載せられており,そう組み立てられることを求めているからである).つまり,判断を自分ではなく対象に委ねている.対象が現実にどういう判断をしてきたかというよりも,対象の中に認められる可能態としての様々なオプションを汲み取れば,結論ができ上がってしまう.誰もが可能性の汲み取り方だけを,一生懸命トレーニングしているといっても差し支えない(研究に限ったことですらない).対象に判断を委ねることで,自分の判断として背負い込むべき文を,極力減らしている.これが「難しい」とされる原因だろう.
判断停止という状況は,この可能性を汲み取ることが,何らかの理由で抑圧されている.研究対象だけでなく,自分が普段接している日常世界も含め,そこには様々な可能性が秘められていて,自分はそれを操作,選択,何もしないというものまで含め,ある判断を繰り返して生活している.ある一つの判断ができないために,ほかの物事の判断が全体的に不順となってしまうことが,僕にはよくある.どうやらその時期が,再びきたようだ.問題を忘却ないし緩和するか,根本的な解決策が「訪れる」(自分で見つけるのではない)まで,しばらく沈滞せざるを得ない.

by d_ama | 2005-09-04 20:47 | miscellaneous

<< 判断不能の要因の一つ      久々の表参道 >>