人気ブログランキング | 話題のタグを見る
2007年 02月 07日
「周縁」意識と研究
周縁にいる,マイノリティの立場にある,という自覚が,僕を文章を書くという行為に奔らせているのかも知れない.
小学校の学区域の中で,随分西に住んでいたものだから,小学校の近くの商店街とか神社とかの話にはあまりついていっていなかった.その小学校自体が,杉並区の中でも割と周縁扱いされている学校だった(元々隣の小学校の分校で歴史が浅いのもあるし,日教組が強かったこともあったのだろう.もっともそれはどちらが原因でどちらが帰結かは判らない).杉並区も東京の中で存在感が薄いというか,何の変哲もない住宅区と思われている.世田谷や大田区ほどの高級感もなければ,練馬区という(実態はともあれ)名前ほどの田舎っぽさもなく(でも杉並で自動車を登録すると「練馬」ナンバだ),最近5年くらい中央線文化なんて言い出されるまではさほどのアイデンティティも伴わない名前だったのではないか.あんまり中央線文化という言葉が流行ると,金沢と石川県や名古屋と愛知県の関係みたいに,「え高円寺って杉並区なの?荻窪区じゃないんだ」といわれたりして.
そもそも両親の出自は津軽だったり札幌だったりで,方や「辺境」,方や「フロンティア」である(イメージの優劣はあっても名指されている事態は同じだ).東北や北海道自体が,日本の歴史から見て周縁に扱われている.東京だって,近世より前の歴史では周縁化されている.僕が学校で日本の歴史として教わったものなど,一都市でしかない京都,もっといえば一王権にすぎなかった天皇家中心の法制・経済史と文化史くらいなのだ(もちろん学問としての日本史研究はそんなレヴェルをとっくに超えている).その日本ですら,世界的には古くは「東夷」新しくは「極東」の一国にすぎない.
建築は美学の中であまり中心的なテーマとはみなされていない.工学部建築学科の中でも建築史はあまり中心的ではない上に,文化財保存などの受容がある日本建築史,東洋建築史に比べると,ばしばし壊されていく近代建築史に保存というインセンティヴは付与されにくい.まして僕は建築「思想」史を(先週末初めて)名乗り,モノとは一定の距離を保っている.文学部美学芸術学科だって,哲学や社会学や心理学といった大手(?)の研究室に比べれば規模は小さい(が,学部長を出した経験はそういえばあったっけ)し,文学部自体東京大学の中でますます立場を小さくしているかも知れない(いまのところ雰囲気や話のネタだけで,実効的に縮められているという根拠は持たないが).

もちろん,もっともっと「周縁」性を感じている人々,明らかにマイノリティと受け止められる属性を持った人々はいるのだし,そういう人達にとって東京大学なんていう名前は「主流」の権化みたいなものだろう.帝国大学当時は尚更である(と,突然分離派の話).それでも運動団体を作らざるを得ない必然性を考え,創宇社や1930年代以降社会運動の色彩を強めていく建築運動から見て外部化される分離派の立場を芸術の名の下に強調しようと考えているのは,ずっと「周縁」を気取っていればある意味で安心できていた自分の立ち位置が,「東京大学」などという名前のせいで(しかもアカデミズムという,歪んでいるかも知れないがかなり「正統的な」?進路を選択したせいで)事態が捻じれたことへの,一種の反動かも知れない.あるいは,いつまでも美学の「正統」とされるような思想研究に乗り気になれないでいるのも,あまり美学と関係ないことを平気で続けているのも,同じ反動の身振りかも知れない.真偽はどうあれ,また程度の多少はどうあれ,こうした捩れの事態を自覚しているゆえに,自分が「東京大学」の名を分け持っていることを想った途端に,さっき自分の話だったのが分離派の話に転じたのだ.
そんな「周縁」「辺境」意識を過剰にもつのは健全ではないが,どこか自分のモチヴェーションの中に交じりこんでいるかもな,と思ったのは蓮實重彦・山内昌之『20世紀との訣別』を読んでのこと.別にこうした意識が必ず「書く」行為に結びつくわけでもないだろうが.

by d_ama | 2007-02-07 00:58 | miscellaneous

<< カルロス・ルイス・サフォン『風の影』      アートスタディーズ >>