2005年 07月 04日
掲示板ハイライト4
[873] 駒場COE 投稿者:あま 投稿日:2005/04/14(Thr) 03:50:28 
通りすがりという身分で,駒場COEの茶話会?に立ち寄ってみた.テーマは「哲学とは何か?」(!).初回だからというので,主宰の康夫氏(どうしても普段の習慣でファーストネームで呼んでしまうが,小林先生)が2時間の限定の内の4,50分を自分のアジテーションに使ったので,残りのディスカッションでの発言者は限られたし,僕も発言できなかった(本当に通りすがりになってしまった)のだが.
田中純先生が哲学とは「知を引き出して伝えること」であり,そのためには文献学的な作業も辞さない,と述べたとき,おそらく彼は自分の仕事が哲学の範疇に入ることを引き受けている.一方小林先生は自分が哲学の専門家ではないことを繰り返し強調する.彼にとっての冒頭の問いの引き受け方,それは一方で(おそらくは本郷に対する)駒場から(欧米との3極体制という)世界的視野に開けた場の創設を目指すべきという,いわば外部からの(部分的にはCOEプログラムに則ったしCOEプログラムを乗っ取った)制度的規定と,他方でドゥルーズやメルロ=ポンティら他者の仕事にインスピレーションを受ける形での精密さには欠けたテーゼの提出である(精密さに欠けるから無益とか有害とかいう訳ではない).ディスカッションの中でも,日々の弁当のメニューを考えるのに役立つ『暮しの科学』的立場から哲学を再構築すべきと(あえて)述べた染谷氏は,少なくとも自分が哲学をしてきて,文献学的所作にお腹いっぱいになったという実感をそこに込めているように聞こえた.自分が哲学をしていないと断りつつ,いわば教科書的な理解をまず挙げる人もいたが(お名前を失念しました),たぶんそれでは議論のたたき台にはならない.むしろ,門林氏が冷静な手つきで行うマッピングは哲学たりうるかどうかを問うことの方が,生産的だったろう(いや思想史です,という一言で片づけられるか否か,である).

[874] 一応…… 投稿者:あま 投稿日:2005/04/14(Thr) 04:08:58
僕が「哲学とは何か」についてどんなことでもいいから答えなきゃ駄目といわれれば,どう答えるかな…….
多分加治屋氏(漢字自信なし)がphilosophyではなくtheoryだと分類した範疇に入るだろうが,認識論を認知科学に分割統治されるなど,諸科学の侵略でやせ細った哲学の枝に今残っている核心は,現実の状況に基づく制約を一旦解除してより広い選択肢を示す行為と,そのための諸々のトレーニングである.……と,答えるでしょうね.自分を取り巻く状況を解除するのに必要な,自分(の位置)の認識も,これに含めるべきでしょう.
酒を飲んだ夜の……まだ夜が白んでいない時間に書くにはちょうどいいテーマですが,でもこの答えは結局倫理の教科書にでも書いてありそうな理解の焼き直しに過ぎません.ただし,現実の制約の解除は現実からの逃避を意味するものではありません.
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# by d_ama | 2005-07-04 04:06 | books / studies
2005年 07月 04日
掲示板ハイライト3
[849] 無題 投稿者:まきの 投稿日:2005/03/08(Tue) 01:52:49 
写美の中吊りが気になります。
行ったら感想きかせてください。
大嶋優木の作品が大好きなんです。
あの萌えフィギュアっぷりったらもう!

[851] 中吊り? 投稿者:あま 投稿日:2005/03/10(Thr) 00:30:18
最近あまり電車に乗らないので,写真美術館が中吊りを出していることにまず驚きです.行ったら感想ここに書こうかな.大嶋優木? 森川嘉一郎によるヴェネツィア・ビエンナーレの展示だけじゃなかったんだ.中でもオタクの部屋(開発好明氏)は1時間待ちにもなっているとか.恵比寿が思わず大入りです.けど「萌え」は僕にはまだ判らない感情です.

今日は六本木ヒルズに「アーキラボ」を見に行きました.シンポジウムは行ったけど展示は初めてです.CDGの第1ターミナルの形は前から変だと思っていましたが,この文脈に置いてみると実におとなしいですね(笑)せっかくなのだから,そういう建築を夢見た人々が何を求めていたのか,しっかり書いて欲しいなと思いました.カタログの記述もなんだか足りなかった感じがしたし……って,全ての展覧会に国立近代美術館みたいな多弁を求めても仕方ないのかな.同じ形状でも,時代によって意味付けが異なることがよく判ります.建築物だけでなく,建築物の見方を規定する概念,記述の方も大事だということだから,僕の研究方針として少し心強いです.

[853] 行きました 投稿者:あま 投稿日:2005/03/10(Thr) 23:16:31
観客のほとんどがコミックマーケット会場の区割りのどこに何が入ってるとか,自分の好きなフィギュアとか漫画とかを置いて売ってもらうための貸し出しボックスの中身とか,細かいところを見ていて,僕はそういうところはすっ飛ばした(だってフィギュアとかアニメとか同人誌とか関心ないもん)ので,20分もあれば見終わってしまう展示でした.会場の最初に「詫び」「寂」「萌え」「ぷに」「へたれ」なんて書いてあるのが「間」展のパロディだなんて誰か気付いてたかな.ま,それを知ってるのはそれはそれで建築オタクなのですが.
建築史研究者としてオタクに言及するなら,秋葉原の模型はビックカメラやフィギュアの絵を建物模型に貼り付けて済ませるんじゃなくて,何らかの実際の例を示すべきですし,「オタクの部屋」も実際のものというよりはイメージによる構成に過ぎません.これらから何か感じ取れることはありませんでした.秋葉原の街路が個室空間化しているという指摘自体は面白いし,多分重要な事実だとは思うのですが.森川嘉一郎の議論と,会場構成とが一致していないのかも知れません.
レンタルボックス?が通路の両側を占める場所は,正直にいえば不快です.けれどその不快さがなぜ成り立っているのか考える必要はあります.日本の景観って,ちょうどこのレンタルボックスが延々国道沿いに連なっている感じですよね.各々がばらばらな自己主張を声高に叫んでいる,その密度が堪えきれません.
大嶋氏の新横浜ありなは,なぜここに取り上げられているのか全く判りませんでした.ただ,あるだけ.妄想の巨大さというだけならハリウッド映画に繰り返し取り上げられているわけで……(バイオハザード,ゴジラなど).
森川氏の議論をもっと色々膨らませられるのに,それをあまり展示に作り込まなかった理由は不明です.
会場入り口にあったArs Electronica出品作品の方が,展示としては面白かった.ちなみに僕は今まで8億秒弱生きてきて,19億秒弱これから生きるみたいです.死ぬ日の設定がちょっと早かったかなとも思いますが.宮島達男と立花ハジメの展示です.

[855] 思いつき。 投稿者:はしかよ 投稿日:2005/03/11(Fri) 23:54:21
キョーミブカイ議題だったので返信します。
テレビのない生活をしているあまさんは知らなかったと思いますが、ヴェネツィア・ビエンナーレの展示は、こないだ教育テレビの「日曜美術館」で取り上げられてました。イタリアの見学者の人たちが、「おもしろいわ〜日本に行ってみたいわ〜」とオタク文化に偏見がない「素」の感想を言っていて新鮮でした。恵比寿が大入りなのは、このテレビの影響もあるんじゃないかな。
「秋葉原の街路が個室空間化している」というのは気になる指摘です。秋葉原がどこの都市にもない独特の「個室空間」となったのは、日本の都市の多くがどこも同じに見える「均一空間」になってしまっていることが、原因なのではないかと思いました。地方都市の駅前の風景がどこも似たり寄ったりであることとか、郊外の幹線道路に連なるイオン等チェーン店の顔ぶれがまったく一緒であることとか、均一の風景が広がる世界には、やけに「濃い空間」を作り出すようなインセンティブがうまれるんじゃないかなんてね。ただの思いつきです。
それにしても、開発の速度が著しい東京という都市はやっぱ面白いなーとしみじみ思います。
> 各々がばらばらな自己主張を声高に叫んでいる,その密度が堪えきれません.
とありますが、この密度、通り一つ違うだけで印象が違うというぐちゃくちゃさ、猥雑な感じがアジアかつ東京!という感じがします。多分この密度をなくしたら魅力が半減しちゃうんじゃないかな。どこもが六本木ヒルズとかヒルズ近くの泉ガーデンタワーとかみたいに「キレイ」だったら、私は街を歩きたくないです。
均一化ということで思い出したけど、東京都現代美術館の「孤独笑いなんちゃら」みたいな展示に関する記事のなかで、スクールデイズという写真が気になりました。説明は省きますが。

[856] 思いつきで可よ 投稿者:あま 投稿日:2005/03/12(Sat) 13:08:59
↑ああ……ギャグじゃないの.許して.
ありがとう.テレビのない生活を卒業したのですか?(笑)ヴェネツィアの展示が東京で見られるからだと思っていました(>大入り).(tasteとしての)オタク文化は僕と違う世界ですので,好きでも嫌いでもないです.展示をやっつけたのは,今やっている都市景観に関する仕事で森川氏の著書を採り上げただけに,期待が高かったからです.展示の困難さは承知です.依頼されてからの準備期間が短かった,とかかも(cf.横浜トリエンナーレ).
均一な郊外や駅前と秋葉原の関係は簡単じゃないです.均一化した郊外の中に例えば大型古書店があって外壁の一面をアニメやゲームの広告で覆ってたり,郊外に溢れる店舗の意匠自体が先進イメージを捨ててかわいいキャラクターに頼ってたりするからです(森川氏の文脈では大阪万博後の日本という文脈で,秋葉原の個室空間化と,航空機塗装の一大革命=ポケモンジェットが並置されています).郊外の均一化には,統一感がないという統一があります.この点は東京(秋葉原に限らず)とも共通します.秋葉原や新橋や歌舞伎町が郊外に拡散しているのかも.
対して汐留や丸の内や森ビル(港区総マンハッタン化)のような均一化は,郊外の均一化とどちらが先でしょうね.世界的に優勢なグローヴァリゼーションが日本の風景に作用する際,かたや商売優先景観無視の姿勢に,かたや野立看板や歌舞伎町を嫌い「統一感ある」景観を偽装する姿勢に,現れているのかも.そうか,さらに分譲住宅地の均一さが,郊外/森ビルと別の質を持っているかも.だからって伝統的街並みばかり称揚するのも違います.街並みの生成プロセスの問題?
通り一つ違えば印象が違うのならば,通りごとの個性が見えていいですが.通り一つとってもばらばらで,そのばらばらがどの通りをとっても同じというのが東京の現状でしょう(ばらばらと豊かな個性とはどこかが違う).例えば京都なら寺町通りと新京極通り?が平行していますが,寺町通りはそれなりなのに,新京極はひどいと思います.そのひどさです.僕が求める通り一つの統一感が「密度」と相反するものなのかはまだ判りません.でもヨーロッパ人が東京でもラゴスでも上海でもぐちゃぐちゃ密度を称賛するのって,悪しきオリエンタリズムかもね.面白いのは面白いけど,面白がっている僕とこの街の関係はどうなの,ってこと.
澤田知子のschool daysはグルーヴィジョンズの「チャッピー」の裏返しでしょうね.両者を往復すると色々なことが言えそうです.

[859] あらまっちゃん。 投稿者:まきの 投稿日:2005/03/19(Sat) 01:52:46
にゃのかんそうをよんでムム?とおもって
写美のサイトみたらどうもわたしのおもってるのとはちがう内容の
展示だったようですね!?
フィギュアとかいっぱい並べてあるのかと思った。

っていうか「萌え」という感情がわからないなんて
なんて人生損してるんだろうって思う私がじんせいあゆみまちがってるのかな?

かんけいないけど新居がきまったから遊びにきてね。
都外だけど。
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# by d_ama | 2005-07-04 04:04 | events / art
2005年 07月 04日
掲示板ハイライト2
[847] 無題 投稿者:あま 投稿日:2005/03/08(Tue) 00:52:32 
第一の種類は状態の質を主要なものと考える人々からなる,これらの人々は芸術を創造する.第二の種類は実業を営む実践的な人々からなる.彼らは支配力の他は何ものも尊重せず,その支配力もそれが実際に行使される限りにおいてのみ尊重する.第三の種類は理性よりも偉大なものはないと考える人々からなる.もし力が彼らの関心を引くとしたら,その力が理性または法則を有する場合に限る.第一の種類の人々にとっては自然は絵であり,第二の種類の人々にとっては機会であり,第三の種類の人々にとっては宇宙であり,彼らにとってはその宇宙は極めて賛美に値し,その宇宙の諸行を解明することが人生を生きるに値するものにする唯一の事柄である.CP1.43

パースの全体から見ればごくささいな箇所ですが,こういうところに一抹の違和感と強い共感とが入り交じった感想を持ちます.様々な関連事項が思い出されて,研究として進めるには心が痛かったりすることもありました.
だからってパースの論文を書けなかったことの言い訳にはならないですが.
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# by d_ama | 2005-07-04 04:02 | miscellaneous
2005年 07月 04日
掲示板ハイライト1
ここ4ヶ月分だけですが,掲示板から救出しておこうかなと思った文章をいくつか.

[840] ミュシャ 投稿者:あま 投稿日:2005/02/26(Sat) 00:45:30 
友達に誘われ,ミュシャ展@東京都美術館に行ってきました.女性を描く柔らかいタッチとか,曲線の装飾で画面を埋めるとか,おおよそ僕が共感できるような様式ないし手法ではありません.端的に言えば嫌いです.作品の前にいなければ,特に興味をかき立てられることもないでしょう.ただ以前の展示で,ミュシャが意外にポスターデザインに形態上の配慮を凝らしていることに気付きました.今回は展示されていた下絵・習作を見て,装飾の渦巻き曲線とか,女性の表情とかが,完成作とかなり異なる場合があると気付きました(今さらながらなのですが).細部を決定することで初めて完成作になると言える一方で,画面の構成と描く対象の選定こそが問題で,細部は後からついてくるものだとも言えるでしょう,重点の置き所はともかく,少なくとも作品に対して骨格・構成とその肉付けのような数段階のアプローチを取っている点は確かで,そのことはものの作られ方におけるある明快さを示しています(現代芸術への共感とは異なる意味で,カッサンドルが好きな理由を言うならば,多分「明快さの中に込められた叙情性」のような言い方に落ち着いてしまうでしょう.それが芸術に対する浅薄な理解と言われれば,まあその通りですが,その明快さを画面に見いだすのは絵画を見る楽しさの一つと言えませんか?).その点でミュシャの読解は面白いなと思いました.面白さと好き/嫌いとは,この場合別です.
ミュシャの場合,特にモラヴィア人=スラヴ民族という出自(その対立項として想定されたのはおそらく「ドイツ民族」)への自意識の反映が面白いと以前思っていましたが,それは今回の展示ではかなり後ろの方に言及されていました.彼の生涯の中では決して主旋律であるようには扱われていませんでした.たしかにサラ・ベルナールとの邂逅など,出自とは関係ないアネクドートに取り囲まれているため,パリ時代・アメリカ時代のミュシャの作品からそれを描きだすことは難しいでしょうが,その試みを誰かしてくれないかと思いました.それとも,事実地元に帰るまでそのような意識が現れることはなかったのでしょうか.
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# by d_ama | 2005-07-04 04:01 | events / art
2005年 07月 03日
このページについて
今後私からのアクチュアルなメッセージはこちらに書いていきます.
基本的には,下記ホームページのコンテンツの一部としての位置付けです.
また,ホームページへ誘導するような副次的なページもいくつか持っています.
皆さまから私に(返信という形でなく)書き込まれる機会が,掲示板→ブログの移行によって
損なわれているのですが,私がいかにもどうでもよさそうな近況を書いておけば,
そちらにコメントをつける形で書き込んでいただけると思いますので,引き続きご愛顧下さい.
というか,いかにもどうでもよいことというカテゴリを加えておけばいいのか.

「展覧会情報」の更新が止まっていますが,こちらに書いていこうかというアイデアもあります.
折角ブログにしたのだから,アーカイヴ機能+カテゴリ機能をフルに使おうということです.
カテゴリ機能こそが,ウェブログの最大の利点ではないか,という感触を得ています.

ホームページ:
http://www.ne.jp/asahi/d/ama/
副次的なページ:
mac.com, user.ecc.u-tokyo.ac.jp
SNSサーヴィス:
GREE, MIXI

これらをどう使い分けるかは,これから慣れていくうちに確立していくでしょう.
つまり,今のところはよく解っていません.

また,メールアドレスは以下の通りです.
メイン:
d_ama@mac.com
サブ(メールニュース受信用など):
mail.ecc.u-tokyo.ac.jp, yahoo.co.jp, 3loft.net(まだ残ってるかな……?)
自宅受信用:
tokyo.email.ne.jp(=asahi-net.ne.jp)
携帯電話(緊急用,携帯電話他キャリアからのメール受信用):
t.vodafone.ne.jp
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# by d_ama | 2005-07-03 21:31 | about (page/author)