カテゴリ:human network( 52 )

2017年 01月 17日
すっかり遅れてしまいました
もうセンター試験も終わったというのに,今更ですが……
明けましておめでとうございます.
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by d_ama | 2017-01-17 14:24 | human network
2016年 01月 02日
あけましておめでとうございます
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昨年は告知し忘れましたが,初めての単訳を上梓できました.
ジョルダン・サンド,天内大樹訳『帝国日本の生活文化』岩波書店,2015.

今年もしみじみと仕事を重ねていく所存です.本年もどうぞよろしくお願い申し上げます.
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by d_ama | 2016-01-02 14:20 | human network
2014年 02月 17日
世界観の問題?
久しぶりに(何年ぶりだろう)仕事のお知らせ以外でブログを書きます.

先日話していて、珍しく熱く否定するねといわれたのが,スケートのショートトラック.やっていた人も知っているので,それを否定するつもりはないのだけど,ショートトラックになぜ自分が関心を持てないのかそのとき考えてみた.

おそらくどのような状況で人の評価が成立するか,成立すべきかという点に関係すると思う.いつか「陸上的なルール」と「サッカー的なルール」の違いを痛感したことがあって,たとえば恋愛市場(? 表現の仕方に反発を覚える人もいるだろうが)は圧倒的に後者のルールで進んでいる.つまり自分のボールと思っているものはいつでも取られる可能性があるし,自分がミスをすれば,あるいはもたついていれば,付け入られる可能性が高い.その中で自分の能力と評価を高めていくしかない(個人の評価においては,必ずしもゲームの点数──限定されたエリアにボールを入れた回数──だけが重要なわけでもない).しかし通常の人間関係は,どちらかというと前者のルールだろう.それぞれが自分のレーンで,得意なところを発揮して自分なりにベストの成果を挙げた上で,比べたり競ったりする場合は客観的な時間なり距離なりを測定する.自分が遅いから,跳べないからといって相手を有利にすることもない(理想的には,走り高跳びで自分が1位を取ったことが解っても,競技のバーをさらに上げて試技を続けることができる).ちなみに陸上競技には飛型点も芸術点もない.いかに醜い跳び方でも高く遠く跳んだ方が勝ち.もっとも比較を成り立たせるための基準を損ねる行為は罰せられる(たとえばフライング,幅跳びの踏切位置など).競歩で両足が離れていないか判定することはあって,この判定はいつも微妙なところだけど.

ところで人間の多面性について.美学をやっている人同士でも,お互いに美学研究者としての評価を元に関係が成立している.それだけと言っていいかもしれないし,大抵の人はそれでその人の生活のほとんどが説明できると互いに思ってしまっている.たとえば先日急逝された安西准教授のように,亡くなってみて告別式に別の関係の方が多くいらっしゃるのを見て,初めて美学とは別の活動も盛んだったのかと思い知るということが起きる(いや,フルート奏者としての活動は聞き及んでいたんだけれど).とはいえ100mランナーが別のところ(例えば幅跳び,あるいは競技場外)で何をやっていても,100mの評価には関係ない.

さて,ショートトラックはスタート時にレーンが決まっていない.陸上でいえば中・長距離のグループスタートのような形.800mだと準決勝,決勝と進めばスタートはセパレートになるが,これは混乱を避けるためである.ならば最初からそうすればよいはずだが,大会運営の効率上グループスタートになってしまっている.したがって800mの予選でスタート時に他の走者と接触することはしばしばだし,接触がなくても他の選手の存在により思い通りの走路が採れなかったり位置取りが限定されたりする.選手は元々そういう競技だと理解しているけど,これは純粋に「陸上的なルール」ではない.ましてショートトラックではオリンピック決勝まで勝ち進んでもグループスタートだから,むしろそういう競技であることを本質の一部にしている.「サッカー的なルール」がいろいろな現実に対応しているのは分かるけれど,せめてスポーツくらいは「陸上的なルール」のすがすがしさを見ていたい,と僕の狭量なスポーツ理解が言わせているのだろう.

うん,1回の試技に対する評価と選手そのものへの評価について,区別できていないな.

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by d_ama | 2014-02-17 11:53 | human network
2014年 01月 08日
あけましておめでとうございます
もう寒の入りじゃないのかという話もありますが,風邪と蕁麻疹に見舞われながらスロースタートです.
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます.
まずは旧年中の残務整理と本年の仕込み作業から…….e0017868_1620203.jpg
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by d_ama | 2014-01-08 16:20 | human network
2011年 01月 26日
遅ればせながらご挨拶
新年のご挨拶,というのは形式上できないので,欠礼をお詫びするハガキを作成しました.
したがって年賀状ではないのですが,あくまで地名シリーズ.雪印の切れてるバターなど,ここで作っていたのではないかと思います.
僕自身が行ったことはなくて,ウェブに落ちていた写真から電線を消したり郵便ポストの色味を変えたりして,最後にセピアに変換しました.アイヌ語でうさぎのいる川,という意味ですね(これもウェブで調べました).
ちなみに来年も新年のご挨拶ができないことが,早々に決まってしまいました.そういう年代なんだろうな……まだ両親の世代が危なくなるほどではないですが,友人にも欠礼ハガキに出産報告を兼ねる人がいて,なるほどなーと思います.これはにっぽんmuseumのメルマガにも書いたことですが,欠礼ハガキを年明け前に(妻が)送ると,クリスマスカードで返して下さった先輩もいて,なるほどなーと思います.
来年に向けてですが,龍や竜が付く名前はたくさんあるので,かえって選びにくいです.東洋大学の5区の走者は,確実に実況アナウンサーに言われるでしょうね,辰年の竜神とかなんとか.僕の直接の先輩にも「龍」さんがいます.まあ人名でもこれだけ多いので,地名でもね……ということです.
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by d_ama | 2011-01-26 15:58 | human network
2010年 02月 09日
確かに2020年という年号は非現実的だ
僕は,すでに死んでいた.この世に帰ってきているのは仮住まいで,人々と飲んだり話したりして,向こうで考えていた論文を,こっちで書く.今書いている博論を書き上げたら,僕はもうこの世に帰って来られなくなる.ゾンビのように,肉体は持っていた.喉を振るわせて,物理的な音声で話していた.けれど,歩くことが困難.長時間立っていられなくて,足が崩れてしまう.トイレの入り口まで来て,足首が折れてしまい,といって別に痛くもないので無理して立ち上がろうとしているところを指導教官のO先生とW先生に見られ,W先生はともかくO先生だけはごまかせなかったようだ.研究室の先輩Mさんも,僕の足が悪くなっていることに気付いている.O先生もMさんも,僕が博論を書き上げたら研究室を去るだろうと,感づいているらしい.
美学研究室の人たちと飲んでいると思ったら,いつの間にか広い和室で家族と交じっていた.遠いところにいる祖母と電話で話していて,お互いすでに死んでいるのだが,音声を使って電話で話せることを喜び合う.けれど,祖母は僕に何か心残りがあるかい,と尋ねた.どんなに引き延ばしたって,博論は今年完成させねばならないのだから,その点に心残りはない.けれど,見たかった10年後の建築を,僕はこの目で見ることができない.それが悔しい,と泣き始める.
──そこで起きた.本当に泣いていた(今書きながらでも泣ける).祖母は札幌から伊豆に移りましたが,健在です.思わず太くて長い自分の掌の生命線を確かめてしまった.博論を書き上げても研究し続けるつもり.
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by d_ama | 2010-02-09 16:37 | human network
2010年 01月 03日
あけましておめでとうございます
e0017868_22224115.jpg虎という意味の地名を探して,かつそれが絵にならなければいけないので,探すのは苦労しました.ブエノスアイレスの北30kmほどのところにある観光地のようです.
この作業が博論の進行に影響を与えたとは思えませんが…….

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます.
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by d_ama | 2010-01-03 22:22 | human network
2009年 06月 29日
恥ずかしながら
紹介されてしまいました.
http://www.ard-jp.org/kizunatunagibito/kizuna6.html
写真をご提供下さった方々,無断で使用してしまい申し訳ありません.僕の肖像権など主張するほどのものでもありませんが,撮って下さった皆様へは,取り急ぎ,ごめんなさい.僕以外の写っている方々は,特に言及していませんし誰だか判る人は元々その人を知っている人でしょうから,まあいいか,という判断です.
ちなみに,脱字ではなくその逆(字余り?)が一箇所あります.ねえ,見つけちゃうんです.
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by d_ama | 2009-06-29 01:53 | human network
2008年 12月 14日
泣く理由
青森発の建築専門誌『Ahaus』の最新号の特集は菊竹清訓の「黒石ほるぷ館」.菊竹氏が自らの子供(ということは「スカイハウス」のピロティに吊り下がっていたはずの子供部屋を使用した人,だろう)をしつけるつもりで1975年に設計した,子供向け遊び場兼図書館.現に,その図書館の「キャラクター」は菊竹氏の娘さんが描いた絵が元になっているらしい.

46ページに,今「ほるぷ館」を使用している子供達から菊竹氏へのメッセージや絵が載っている.建築専門誌を読んでいて初めて涙が出そうになった.農地改革という原体験からくる「土地を増やすこと」への衝動ないし欲望で彼の設計は語られつつある(菊竹氏自身,好んでその原体験に触れている).しかし黒石のさらに外れの集落の,平屋建てで100平米少々の,しかし端正な形態を持つ渾身作の図書館を通じ,世代を通じて残る何物かを設計できたというだけで,建築家冥利に尽きるだろう.

子供達や,さらにその子供達が自分の仕事に(多少,雑誌編集部の後押しもあっただろうけれど)感謝を述べてくれるということに,率直に言って建築家への羨望を覚えるし,そのような建築がある街の住民は,その建物が残って使われ続けているというだけで,自分の街を誇ってよいと思う.

涙の理由は2つあるだろう.1つは「感謝される仕事がしたい」というもので,先日酒席でちょっとした気の迷いを話したらN先生に叱られた(笑)とおり,僕はすでに美学者として生きる道を選んでしまっているので,その学問を通して誰かに感謝されるかどうかが,僕なりのチャレンジ.その関係が具体的な形になって,心の準備なしに飛び込んでくると,たいてい涙する.だいぶ前のことだが,『シンドラーのリスト』でも「私は何もできなかった」というシンドラーに生き残ったユダヤ人達が指輪を作って贈るシーンで泣いたことがある.僕は昨夜のOB会でふと思ったように,陸上部部長としては何もできなかったし,サークル責任者としても何もできなかった.今の,あるいはこれからの仕事で,何かを果たす,というよりもむしろ周囲からの借りを返していくしかない.

もう一つは,ついに僕も子供のことを考え始めたというもの.若い頃は子供という世代のことはほとんど考えてなかったし,塾講師をやっている頃も「子供は嫌いだ.嫌いな子供を大人に仕立て上げるのが僕の仕事だ」と考えていた.子供に無限の可能性があるという言い方は,多分嘘だと今でも思う.しかし子供に見せられる自分の姿,彼らがいつか触れるであろう思考──を残していけたら,ある限界内でよりましな方向に社会が進んでいくかもしれない.上の世代より下の世代の方が「どう化けるか判らない」のだから,もし何かを賭けるとしたら必然的に下の世代に賭けることになるだろう.大負けするかもしれないけど,その結果が見えてくる頃には幸い,自分はいない.だから僕の仕事は「賭け金を積むこと」とも言い換えられる.菊竹氏はそれをすでにやり遂げているわけだ.つまり当たり前のことだけど,僕にも下の世代がやってきて,いずれ自分で育てることにもなるということを実感し始めた,らしい.

結婚を決めました.来年夏の予定.
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by d_ama | 2008-12-14 12:41 | human network
2008年 08月 04日
片付ける,ということ
荻窪の叔母の留守宅に,植木の水やりのために向かった.家は片付けられており,さぞやビールが冷蔵庫に冷えているだろう,と期待していたら,食卓にビール券が置いてあるだけだった.この暑い中歩いてきたのに……それはさておき.
家を片付けてから出かける人がいる.一応,道中何かあったときのために,身を清めるというか,部屋を清めておくわけだが,その清める,ないし片付けるという行為は,すなわち自分の行為の痕跡を消すことと言い換えられる.散らかったものを,片付ける.中途半端なグレーのものを,片付ける.処理する,と言い換えると,即座に英訳してdisposeといいたくなるところだ.僕が青森に行って帰ってくる間に,僕が消えてしまったとき,さてこの家は誰が片付けるのだろうか.僕の痕跡を整理し,片付けるのはどんな資格の人間なのだろうか.モノであれば,両親がきてこの家を片付けるのかもしれない.けれど他にとっちらかっているものがいっぱいあるのだが,それは誰がどう片付けるのだろうか.片付けられないから,喪の行為が必要になる,ということなのだろうか.
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by d_ama | 2008-08-04 00:47 | human network